2019年02月
坐禅箴 書き起こしと音声
「禅について・坐禅について」
2018 年9月の攝心の開始時のご提唱です。予備知識ですと話されましたが、
大事なお話だと思います。老師は何時も、「坐禅の時だけではない」と示されます。
少し長いですが、どうぞ。
お坊さん達(曹洞宗)の会に行って来ました。それでですね、現状、どう言う風になってるかって言う事を、お互いに理解して行かないと、禅と言う内容を正し、伝えてないって言う事を感じて、此処に別刷りで一枚、其処に提唱しました。
坐禅をするって言う言葉がですね、本来は無いのですね。本来は坐禅をするって言う風になってない。例えば地元のこの福王寺さんなんかで、道元禅師の「正法眼蔵・坐禅儀」を読んでますが、参禅は坐禅なりと、最初にそう言うに出て来る。参禅をするのであって、坐禅は出て来ないんですよ。坐禅をするって言う風には出て来ないんです、最初に。
普勧坐禅儀の中を見てもですね、それ参禅は静室よろしく飲食節ありって、でてきまして、豈坐臥にかかわらんやって、其処まで。これが禅について。禅の語源、ジャハーナとか、次へサンスクリット、バーリーとか上へ挙げてありますが、一応これ基本なんですね。禅て。
インドではだから坐禅て言うものは無い。何をしたかって言うと、禅を学んだのです。禅を。で、だから中国にゼンと言う発音で、この禅の文字が当てられた。そこでサンスクリットやバーリーの、意訳を見ると、大体次の三つが挙げられている。一つ目には静慮、二つ目には等持、思惟修。さらにそれをですね、訳してあるものって言うか、その内容を示してあるものを見ると大体こんなことが言われている。
正観し、また煩悩を断じることって。で、正観て言うのはどう言う事かって言うと、正しく法の消滅を見ること、と訳されてます。それから寂静にして、寂静と言うのは法に住して乱れず、となっております。深慮すること、寂静にして深慮すること。で、深慮って言うのは、つまびらかに慮るって、どう言う事をやるのかって言ったらですね、あれこれじっくり考える事ではなく、ものの消滅をありのままに明らかにする。だからこの静慮は、上の正観と言われるものを、まあ少し丁寧に説いてあると言って良いぐらいです。
さらに等持って訳してありますが、坐禅三昧とかって言う時に、三昧って言う、なんとか三昧って言う、サンマディと言いますが、そう言う句が、このサンスクリットの禅とかジャハーナとかって言うものの一文として挙げられてる。それは定と言う風になってる。だから、サンスクリットのジャーナ・禅那と言うのを禅の字で漢字で当てて、その訳として下に定の字を付けて禅定と言う字句が出来てます。
上の方はですね、禅に対する訳が坐と言う字が書いてある。で、坐禅と言う風に、坐禅とか禅定とか言う風な言葉が出来てます。いずれにしても禅を訳したものです、どちらも。そう言う風に坐禅とか禅定とか言うものが行われている。やってる事は禅なんです。禅。禅を学ぶんです。禅を学ぶと言う事は、内容を見ると、こう言う事なんですね。
正思惟と言うのもあります。定の中に一応七通り位名前が挙げてあります。皆さんが知っておられるのもあるかもしれませんが。
それから思惟修ですね。思惟修、心が一境に住しって。それは上の静寂、寂静と言う事と殆ど変わらないでしょう。ね。法に住して乱れず。そう言うものの、心が一境に住しって、寂静にして深慮し、全く静慮の訳と変わらないものが挙げてありますが、その後にですね、定慧が均等の状態を示す。坐禅の内容と、坐ってる禅の内容とですね、それと皆さん方が理解している内容が同等である、そう言う状態を指す。そう言う風に訳されてます。
こんな事を敢えて何回も何故言うかって言うと、一般に理解されてる内容はですね、あまりにも坐相に偏り、坐っている時の過ごし方、真意を見失っています。公式の曹洞宗の坐禅に対するパンフレットを見てもですね、九割は坐相なんですね。坐ってること、形の事。それは禅を学ぶって言う事から言うと、ほど遠い内容になってます。
従って、坐りに来たって言うじゃないですか。参禅に来ないんだ、坐りに来る。坐禅に来ました。坐禅に来たって、どう言う事を思ってるかって言うと、殆どこう言う形を作って、坐る事。和尚さんに聞いてもそう。和尚さん、教える側の和尚さんがそうだから、学ぶ人がそれ以外の事をしない。
で私達の大先達になる道元禅師と言う方が残されている普勧坐禅儀を拝見してもですが、普勧坐禅儀って言うものに挙げてる様に内容はですね、一番最初に見てもらうと、勉強をした事がある人も無い人も、禅とか仏教あるいは宗教、そう言う事一切度外視してですね、各自の今の在り様がどうなってるかって言う事が最初に説かれている。その最初に説かれている内容を見ると、すべてのお経に説かれている様に、修行する前にちゃんとしてる、と言う事になっている。
本来本法性、天然自性身、これから修行して立派になるなんて事は一つもない。最初から皆完成されてるって言う風に説かれているって言うのが、どの経典にもあるんですね。それ結論です。そう言う事が最初に説かれている。これが人の真相。誰しもの今の在り様。
だから修行する時にこんなに違うって事が分かるでしょう。その一番最初にどう言う事を教えてるかと言ったら、各自、自分自身をみてごらん、こうなってませんかって。これどの位大切な事かって言うとですね、ここに学びに来る時に、持ち物が一杯有ったらですね、人の話が入って来ない。禅と言うもの自体が、坐ってる時だけじゃない。それを片付けるとか、無くすとか止めるとかって言う様な事ではないのですね。
坐禅と言う文言を取り扱う時、あの坐の字が邪魔なんですね。どうしても坐るとしか読まない。坐は禅の訳なの。意訳なの。意訳はこう言う風な事ですね。静慮と言う様な意味なんです。見てみて分かる様にですね、正観しまた煩悩を断ずるって事。何処にも坐るなんて事、書いてないよ。
等持って言うのは定の訳があるけど、真意、矯正とも色々あるけど、心が一境に住し寂静にして深慮し、定慧が均等の状態。何処にも坐ると言う様な事、書いてない、禅の中。皆さんどうですか。そう言う風に理解してないでしょう。学んだ時。今日から坐るから、坐るって言うと、攝心て言うと、坐るって言う。坐る、だから間違えてほしくないんです。坐るんじゃないんですよ。参禅するんです。禅に参ずるんです。
参禅をするのには、坐禅が一番良いとなってるんです。禅を本当に学ぶのには、次から話す様に、坐禅が一番良いと書いてあるね。参禅は坐禅なり、言う事です。参禅をするのには、禅を学ぶのには、こうやって形もどうしても多少はあるじゃない。
その前にこうやって、それ参禅は静室よろしく、飲食節あり、静かな処が先ずよろしいと言うのでしょう。静室よろしく。で食べ過ぎたり、お腹がペコペコで食べ物の事が思い浮かぶ様な状況だと参禅するのに不都合だと言う事でしょう。それから、気になってる事が有るとやれないから、諸縁を放捨し、万事を休息すると、出て来るのは、今こうやって生活してる在り様だけになる。この今自分の生活してる、この様子だけに用があると言う事を示しています。
こんなに単純になる様にしてるんですね。あれもこれもって何かやる事がない。それはどう言う事で、あれもこれもって言う事がないかって言うと、道元禅師は最初に、今申し上げた様に、ものの在り様って言うのは完璧であるって言う事を説いておいてですね、おわかりでしょう。理解は行くでしょうって言われても、理解は行くんだけど、今度は自分を見るとですね、理解は出来ても納得の行ってない自分がいるって言う事ですね。
違順わずかに起これば紛然として心を失す、毫釐も差あれば天地遙かに隔たりって言う様な事がありまして、この二つが誰しもの今の在り様じゃないですか。それで、実践をする。禅を学ぶと言う風にして、こうやって正しく法の消滅を見ることで。その違順や毫釐の隔たりが無い事がはっきりする。
で、もう少しその下に有るでしょう。正しく法の消滅を見るって事に関して、こう言う風に受け取って貰えたら良いと思うね。自分自身この身心の活動している真相その儘に、諸縁を放捨し、万事を休息すると、本当に今、ここで展開している様子だけがある。だからその展開している様子だけにこうやって、自分の考え方や見方や感情や思いを差し挟まずに、手を付けずにこうやって居るって言う事が、禅の禅たる所以です。禅はそう言う過ごし方をやったんです。
私の師匠が、次の様な事をよく言っておられた。「六根の作用がどうあろうとも、一切かまわずに、一々、一々のその時、その時の作用、活動のままでいる。その生じたり滅したりしてる活動自体が、あなた方の手つかずの真相、探し求めている、触れたい、知りたい事なんだよ。その他には無いよ。」こう言う文章を改めてここに挙げてみると、一番最初に静慮と言うものが訳されているものよりも、私の師匠が伝えて居るこの内容の方が、遙かにはっきりしすね。ていますね。
まあ後は、そうすると本当に何をどうしたって言う事なしにですね、生じたとも滅したとも無い活動が完全に備わっているって言う事が、各自自分ではっきりする。こう言うものが、今伝えられている只管打坐と言われる所以でしょう。
只坐る、何もしないのを、何故そう言う風に説明するかって言うと、これから何かする訳じゃないからです。具体的に六官の活動を挙げてみれば、皆よく分かるでしょう。どれでも良い。握るって言う事だって、こうやったらもうイキナリそう言う事があるんでしょう。これから何かする事は無いじゃない。これでもう握ったんでしょう。離したんでしょう。皆そうなってる。聞いたんでしょう。見たんでしょう。一切そこに自分のですね、見方や感情や思い、手を付ける事一切無しに、皆活動してる。今。それが皆さんの今の在り様でしょう。そうやって過ごすのを禅と言ってるんですよ、禅。
今の在り様だから、尋ねるなとか伺うなって言う事がずーっと説かれて来た。坐禅をするのには、必ずこの尋伺を離れると言う事が正統な教えの中に、ずーっと伝えられてます。
先ず、粗い思い、尋ねるって言う事は粗い思い、伺うと言う方は細かな思い。細かな思い、それがどうなってる、それどう言う事だって、どんどんどんどん細かくものを見ていこうとするのが、訊ねる、この尋伺のシの方ですね。尋ねるのはいきなりそのものがどうかって言って、大雑把にこうやって触れると言う事でしょうね。
参禅は尋ね探し求める事ではない。何かやり替える事じゃない。考えたり思う以前に自分のこうした真相がある、と言う事が大前提、理解をしていただかないと、これから坐って頂く時に、ほど遠い事を多分します。
やっと歩いて来れる様なおみ足の不自由なお方も坐禅に来てる、東京で。私の様なもの、坐禅出来ますかって。やはり形が問われてる坐禅はですね、先ず落第ですね。出来ない。足が組めない。結跏趺坐出来ない。半跏も出来ない。そうすると坐禅は出来ないと思ってる。それ位、坐相にこだわってるんでしょう。だから坐って、坐相をずーっと整えて、あそこが気になるとか、こんなんで良いでしょうか、見て下さい。そんな事しか問わないよ。行くと。要するに、ほんとに禅と言う事が問われてない。
これはたまたまそう言う現職のお坊さんの会だから、取り上げて話してきた。坊さん達がそう言う処ちゃんとしない限りはですね、修正する事が難しいから、一般に。ね。そう言う事もありました。まあ前置きみたいなんですが。
で近くの、上杉謙信さんの立派な坐像のある林泉寺って言うお寺に寄って来ました。運転して頂いてお寺に着くまでに、家のかみさんがねぇって言って、今日会えるので興奮しているんですって言う。何だろうって思った。
上杉謙信さんが書いた、第一義って額物がそこにあって、お参りする方も結構居るんだと言う。住職が居ない時は、奥さんがお相手をするもんだから、入ってきた時、山門に第一義って書いた額がずーっとある。
だからあの辺に行くと、上杉謙信が第一義を重んじたって言う歴史的な教えがですね、もの凄く浸透してる。でも上杉謙信は義を重んじたのであって、達磨大師と武帝が話しをした時の、いかなるか是、聖諦第一義って言う、第一義を尋ねた訳じゃないですね。仏法で言う第一義って言うのは禅なんです。禅。禅は、こう今ずっと縷々話した様にですね、今の自分達各自のものの在り様の上において、本当に自分の考え方を使わずに、今の活動してるそのもの自体がどうあるかって言うことに学ぶんです。実物によって一々証明されて、自覚する道です。
お茶を頂きながら、時間があまりないからって、ちょっとそれでも三十分位奥さんと話してたんだけど、要はですね、自分がそうやってお客さんが来た時に、まともな話がしてあげられないのがもの凄く寂しいって。住職に聞いても近くの方に聞いても、この第一義って事に関して、自分で胸落ちがする様な答えを頂けた人が未だかって一人も無いって、こう言うんです。
そりゃあ辞書を引けばね、第一義って言ったら、一番大事な事とか書いてあるよ。じゃみなさん方、一番大事な事って何ですか。今ここで一番大事な事って何ですか。攝心をするんだけど、一番大事な事ってなんですか。三泊四日の間ってそんな事はないですよ。一番大事な事て、先ず、ずーっと挙げた様に、今ここで生活してる自分以外には無いですよ。目の付け所は。一番大事なものって。今ここで自分がどう在るかって言う事だけですよ。一番大事なものって。
何故か。それによって生きてるんだもん。それ離れた活動なんか無いんだもん。しかも、今ここで各自が生活してるここで、ずーっと話をして来た様に、考え方の付くのと付かずに居るのでは、違うんです。実物はその儘で居てみるのと、自分の考え方で取り扱っているのとでは全然違う世界になる。
裏で筧に水が落ちていたので、奥さんあそこへ水ずっと流れてるよねぇって言って、音してるよねぇって。本当に聞いた事あるって言って、エーって。本当に音を聞くって事がどう言う事か。もしこうやって音がした時に、コン!(机を払子で打つ)これにここにも挙げて有る様に、自分の見解、考え方、感情、思いそう言う様なもの入れて、差し挟んで手を付けたらですね、せっかくここでコン!音がしてるんだけど、音を聞くって事にならないですね。それ分かるでしょう。簡単な話。音と違うことやってるでしょう。それ分かりますよね。
そう言う事を、私達は殆ど気づいてないから、やった事がない。禅て正にコン!これだけじゃないですか。コンて。自分の考え方や見方や感情や思いを差し挟さまず、こうやってコン!いるって事が禅なんでしょう。そうやって音を本当にこう触れた事があるかって言うだけの話じゃん。
トンボが飛んでますね。ほんとに見た事あるか。どう言う風に見てるかって言うと、先ず自分の考え方や見方や感情や、ああ秋が来たんだとか、良いねぇとか色んな、もう本当にトンボの飛んでる姿そのものを見てるなんて言う事とは全く違う世界に居るんですよ。禅て言うのはそう言う事じゃない。参禅をする、禅。だから坐ってどうこうなんて言う事じゃ本来ないんです。
その証拠にこうやって、「それ参禅は静室よろしく飲食節あり、諸縁を放捨し万事を休息して、是非善悪を思わず、」これら皆禅の意訳でしょう。そこに静慮と書いたものの内容がこう言うものでしょう。「心意識の運転を止め念想観の測量を止め作仏を図することなかれ。」図ることなかれ。これが静慮なんでしょう。禅の意味なんです。で、坐ってるとか寝てるとか言う様な事、問題じゃないじゃないかと言う事なんです。「豈坐臥にかかわらんや。」
次に世の常って出て来る。じゃどう言う風に過ごすかって言うと、形が普勧坐禅儀はこの後、形が出て来るんです。「厚く坐物を敷き上に蒲団を用う、或いは結跏趺坐、あるいは半跏趺坐、」結跏趺坐曰く半跏趺坐曰く、或いは手の形どうのとか、正身端座とか、目がどうだとか、舌をどう言う風に処理するだとか、言う様な事がやっと出て来るんだよ。
で、もう少しそれが形が終わるとですね、「兀々と坐静して」形が出来た時に、「兀々と坐床して箇の不思量底を思量せよ、」やっぱりこうやって静慮と居言う様なものが説かれるんですね。「箇の不思量底を思量せよ、不思量底いかんが思量せん、非思量。すなはち坐禅の要術なり。」って説かれる。
ところが一番大事な事って書いてある処のものはカットですよ。で、最初のもカットですよ。禅に対する意味合いの処も殆どカットですよ。骨抜きで坐相だけが出て来る。だから今坐っていただいて、皆さん自分てどう言う風な過ごし方をしてるか、改めて見て下さい。何に重きをおいているのか。
涅槃経と言われるものには、「諸々の定を修習すべし。」と書いてある。諸々の定を修習すべし。諸々の定を修習すると言う事は、ご飯を食べてる時はご飯、お掃除をしてる時はお掃除、歩いてる時は歩いてる、読経の時は読経、風呂に入ってる時は風呂、歯を磨いてる時、様々なその時その時、それ以外は無いんですからね。何回も言いますけれど。生きてる場所って、その時今の様子しか無いんです。他でやりたくても、何も出来ない。他はないんです。時間的に言っても。
場所的にもこのものの在る場所以外に行ってですね、修行するって言う事はないほど、必ずここでやるのです。だけど、そう言う事知らないから、坐りに行きますって。坐りに行きます。自分の今こうやってる事を離れて、何処かに坐る場所を求めて行ってですね、其処へ行って何やるか、坐りますって言うんです。禅はしてないんです、殆ど。
立派な方々は道場は何処かったら、必ず直身と指すでしょう。あなたの今此処が道場じゃないですか。直身これ道場。他に修行する場所何処にもない。そうでないと、何処かに書いてある様にですね、坐禅の時はって言うタイトルがですね、ものが何か説明される時に、坐禅の時はって言う事が付けられた場合は、もう明らかに坐禅をしてない時はって言う事が有るでしょう。坐禅の時はって言う事は、坐禅をしていない時と坐禅をしている時と別なんでしょう。二つあるんでしょう。
皆さん自分の生活で、自分の生活している時、他人に生活している時って無いじゃないですか。ずーっと自分自身の生活だけじゃないですか。時々自分の生活ってそんな人は居ないじゃない。一生涯そうでしょう。基本的なそう言う勉強を、一応提唱と言われるものをする前にですね、話しておこうと思って、こんなものをちょっと刷っておきました。予備知識です。予備知識も結構大事なんです。
予備知識が無いと、ものを学ぶんだけども、ここまで来ない。先ず来ない。私の知ってる方で、沢山そう言う人が居る。何十年も色々な所に、色々な人にこうやって触れて、結局よく分からない。それは基本がそうだもん。自分の事を本当に知ろうと思うのに、なんでウロウロするのよ。分からないのは只自分の分別心を離れて、自分に触れないから、自分の真相がそのまま伝わらないだけじゃない。そんなに明確じゃないですか。はじめっから。
だから一度でも良いから、わずかにでも良い、自分の分別を離れた時の様子に、自分が触れたら、必ず人は変わるよ。ああ、なるほどって。見たことが無いんだもん。こうやって触れてても、本当に。音に触れてても、コンコンコンコン!本当に聞くって事してないんだもん。皆そうやってズレた事やってるでしょう。